03

墓守キッチョムのおとぎ話

HELL’S FIRE

肉屋の娘、マルゴーとアルト、そして『踵にバネを持つ男』

暗い闇がグレスデンの町を包み込んでいた。
夜に漂う黒雲に月が完全に覆われるとグレスデンの町の灯はさらに温かく光り輝くのだが、
今日は少し違っていた。
この日はぼんやりと霧が漂っていた。
光はかき消されるように遠くに感じるばかりだった。
そしてこの霧が数日間グレスデンの町にとどまることをこのとき、
誰も予想してはいなかった。

肉屋の娘、マルゴーとアルト、そして『踵にバネを持つ男』

タムズの肉屋の看板が海の上を漂う船のように霧の中にぼんやり浮いている。大きな豚の横顔にタムズと書かれたその木製の看板は扉の傍に太い2本の鎖でぶら下げられていた。タムズの店に代々うけつがれてきた自慢の看板だった。

タムズの肉屋は、口数は少ないが太った気のいい父親と二人の娘が商売をしていた。母親はすでに他界し、店主は口数が少ないが、しっかり者の姉のマルゴーがお金を管理し、愛嬌のある妹のアルトが客の相手をしており、娘たちのおかげでタムズの肉屋は繁盛しているようなものだった。

店内では二人の姉妹が慌ただしく口だけを動かし後片付けをしている。姉のマルゴーは妹の恋人について納得がいかないらしくここ数日小言を言い続けているのだ。アルトはずっと姉のご機嫌をとりながら話をしていたが、まるで壁に話しかけているような気分だった。話しかけるたびにつらく、不安になっていく。

「姐さん、フランクは丈夫な靴をつくれるわ。いちど彼に靴をつくってもらいましょう」妹のアルトは大きな肉の塊を木の盆にのせ、無理に笑みをつくりながら言った。横目で姉の反応をじっと見ている。

マルゴーはそのキリットした眉をピクリとも動かさない。整った顔立ちと薄い唇、聡明でとても美しい女性だ。しかし、人の目を見て話すことをしない、それでいてはっきりとした口調や冷静な物言いをする。それは彼女が動揺して目をあわさないのではなく、目の前にいる人間を相手にしていない証拠だ。そしてその仕草や話し方があらゆる人間に冷酷な印象を与えていた。

「ふざけないでちょうだい。わたしの靴はデニスのつくったものよ。親方の作った靴は一番丈夫だもの、それに息子のアデスが跡継でしょう。フランクは職人じゃないわ、ただの使用人でしょう」
「そう、そうよ、ただの使用人。そう……、だから、その……あたし、思い切って言うわ!」アルトは一度持ち上げた木の盆を再びテーブルに置いた。いや、勢い余って叩きつけたのだ。マルゴーは驚いたようにアルトを見つめた。

アルトの大きな瞳がまっすぐ自分を見つめていた。ほつれた髪が頬に張り付き一日の労働の疲れをあらわしていたが、小柄な顔に大きな瞳、小さな鼻先が微かにうえを向いていてとても可愛らしい。笑うと驚くほど大きくなる口がいまはきつく結ばれている。両腕をテーブルにのせ身を乗り出してくる。マルゴーは気迫に押されるように上半身をのけぞらし、手に持っていた木の桶をきつく抱きしめた。

「な、なによ……。言いたいことがあるならいいなさい……」

アルトは瞳を閉じ深呼吸をした。瞼を弾いて目を見開くと大きな瞳がさらに大きくなった。

「フランクが言ったの! 店を出すって! 二人で店を出そうって! ……あたしたち結婚するの……彼はもう使用人じゃないわ、りっぱな靴職人……!!」

「わたしに恥をかかせないでちょうだい!!」マルゴーは叫ぶやいなや抱きしめていた木の桶をテーブルに叩きつけた。「ふざけないでちょうだい! ふたりで靴磨きでもやるつもり!? そんなこと、そんなこと父さんも許さないわよ!!」

いまやアルトの肩はちいさく縮こまり、テーブルに置いていた手は胸元できつく握りあわされていた。瞳からこぼれ落ちそうな涙でゆらゆら世界が揺れていた。

「ねえさん、父さんはいいって……、ただ……」
「なに? はっきりいいなさいよ、父さんも許したわけじゃないんでしょう!?」
「ねえさんが先に結婚しないとダメだって……」
「なんですって!!」マルゴーの手が、体が、怒りと恥ずかしさで震えた。「わたしの……わたしのせいだっていうの……」

「……ねえさんが、ねえさんがこの家にいつまでもいるからいけないのよ!!」そういうとアルトの目から耐えかねたように大粒の涙が頬をつたった。アルトはもうこれ以上姉の前に立っていることができなかった。逃げるように駆け出すと二階への階段を駆け上がっていく。狭い階段に父親の姿を見た、心配そうにアルトを見ている。なにか言いたそうにしているが口元をまごまご動かすばかりで言葉は出てこない。タムズの太った体のわきを小さくなって通り抜け階段を上がると自分の部屋の扉を開いた。暗い部屋の中に飛び込み後ろ手にドアを閉じる。込みあげてくる嗚咽とともに涙があふれ出た。

マルゴーが椅子に腰かけうつむいていると階段に人影をみた。タムズが心配そうにマルゴーを見ている。

「父さん……、いま、一人にしてほしいの……」マルゴーはいつになく力ない声でいった。

「ああ……、わかっている」マルゴーに背を向け階段に足をかけたが踏み出すことはしなかった。タムズは低く小さな声でこういった。
「すまない、お前には先に話しておくべきだったな……。わたしも後悔している、わたしのせいだ、二人を傷つけてしまったようだ……おまえさえよければ、近いうちに式を……」

マルゴーは目を閉じうなづくと、両手で顔を覆った。

タムズはマルゴーがうなづいたのをみると、少し安心したように微かに笑みをみせ階段をあがっていた。

マルゴーは泣いているのではなかったし、納得したのでもなかった。ただ暗い世界に身を置きたい気分だった。指先からこぼれてくる光を遮るように指先に力を込めて光をふさいだ。まるで仮面をかぶっているようだ。マルゴーは静かに呼吸をして目を閉じた。

 しかし、その声を聴くべき者はすでに地獄を去ったあとだった……。

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